2016.7.12. 差別の歴史を考える連続講座

京都部落問題研究資料センターが主催する「差別の歴史を考える連続講座」に、司会進行役という形で参加させていただいております。この連続講座、前年度までは「部落史連続講座」として長らく実施されてきましたが、採り上げるテーマが必ずしも部落史に限定されていないという実状に即して、今年度から名称を変更したものです。

今年度の第1回は6月17日に行われ、日本中世史研究者の下坂守さんが「四条河原の芝居地~鴨川の治水と民衆の娯楽」と題して講義しました。現在四条大橋が架かっている京都・鴨川の四条河原が、中世から近世にかけてどのように姿を変えていったかを時代を追って説明して下さいました。桃山期に「御土居」が築造された西岸の移り変わりもさることながら、「御土居」とほぼ同時期に造られた「縄手堤」、江戸期に入ってから造られた「寛文新堤」など東岸の変遷については初めて知る事柄も多く、この界隈を人権フィールドワークで案内して歩くことが多い私には、たいへん勉強になりました。京都にお住まいの方でなければピンとこないかもしれませんが、鴨川東岸に川筋と並行して南北に走る大和大路という道があります。この大和大路、四条通との交差点より北、三条通までの間のみ「縄手通」とも呼び習わされていて、それが何故なのか分からずにいたのですが、下坂さんの話を聞いてやっと納得できました。大和大路は本来四条までで、それより北は、もともとは桃山期に築造された「縄手堤」の土手道だった、ということ。次にフィールドワークでこのあたりを巡るさいに、付け加えるうんちくが一つ増えました。

 

 

2016.6.15.  バリアフリー広め隊

今月末(6月29日)に開催される「第30回人権啓発京都府集会」の第2分科会「障害者差別解消法の施行をめぐって」でコーディネーターを務めることになっています。この分科会には、私が長年付き合ってきた自立生活を進める障害当事者団体「JCIL(日本自立生活センター)」のメンバーも参加し、合理的配慮に関する寸劇を上演したり、地域での自立生活の経験談を話したりしてくれるほか、「バリアフリー広め隊」の活動報告もしてくれる予定です。「広め隊」は、普段は主に京都市内の街路や公共施設、店舗などのバリアフリー度を実地調査し、都市空間のバリアフリー化を求める活動を展開しているのですが、今回、啓発集会が福知山市で開催されるのに合わせ、集会を前に当地のバリアフリー度調査をすることとなり、5月31日に福知山を訪問。私も同行しました。

電動車いすを使用しているメンバー2名と介助スタッフ、そして私の4名で、まずは腹ごしらえ。駅前の雑居ビル2階にエレベーターで上がれる定食屋があり、そこに入ったのですが、2階は階段の踊り場がエレベーター前のスペースになっていて、慎重に車いすを操作しないと階段を転げ落ちていくほどの狭さ。いちおうのバリアフリー化がなされていたとしても「合理的配慮」が徹底されているとは限らないということです。

街路の歩道上は、車いす使用者からするとスムーズに走行しやすく、沿道には出入り口の段差がないバリアフリーな飲食店が軒を連ねる一角もありましたが、残念ながらどの店も既に廃業していました。

福知山城址も訪れ、せっかくなので天守閣のある城山のてっぺんまで登りました。登り坂は、段差はないけれど急ながたがた道。電動車いすのバッテリーのパワーではとうてい登れないので、スタッフと私がメンバー2名の車いすを押して、へとへとになって何とか登り切りました。天守閣の前に、車いすがすっぽり収まるくらいの広さの井戸があり、垂直に、城山の高低差に匹敵するほどの深さがあるとのこと。「この井戸をそのままエレベーターに改造すれば、楽に昇り降りできるのになあ・・・」。

ほかにも市内各所で調査を実施した「広め隊」。集会では、まじめにかつ面白おかしく報告してくれることでしょう。

 

 

2016.5.6. 「夷酋󠄀列像」を観る

連休中の5月4日、大阪・万博公園内の国立民族学博物館で開催中の特別展「夷酋󠄀列像~蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」を観てきました。「夷酋󠄀列像」は18世紀末、松前藩士(のち家老)の蠣崎波響が「夷酋󠄀」つまりアイヌの有力者12人を描いた肖像画。非常に精巧かつ色彩豊かに描かれた作品で、近世美術史上の傑作と言い得るものですが、今回の民博の特別展では、その美術的価値よりも文化史的意義に焦点が当てられ、従って粉本や模写や関連史料が数多く出展されていたにもかかわらず、肝心の波響の本作は細密写真のレプリカによってのみ示されているという按配でした。

波響が描いた12人の「夷酋󠄀」は、クナシリ・メシリの戦いと名付けられたアイヌの蜂起を平定する際、アイヌ側から松前藩に協力した人々です。いずれも威厳ある姿で描かれているところにアイヌ首長たちへの敬意は看て取れますが、あくまでそれは「協力者」に対する敬意または配慮だったとも言えそうです。幕藩体制に対する辺境の抵抗勢力としてのアイヌではなく、むしろ幕藩体制に従った物分かりのいい人々としてのアイヌを描き、かつその図像を模写を通じて流布させることで、波響の属する松前藩としては、同藩がアイヌをうまく手なずけて北方警護を無事に務め上げているとの印象を、江戸あるいは日本各地に与えようと目論んだのかもしれません。

気高く威厳に満ちてはいるが「日本」に対して叛旗を翻すことはない従順な北方異民族ーという、その後のわが国における「アイヌ観」の形成に、この絵画が大きく与ったことは間違いなさそうです。

 

 

2016.4.4. 障害者差別解消法が施行

4月1日、障害者差別解消法が施行されました。

京都ではちょうど1年前にいわゆる「京都府障害者権利条例」(正式名称=京都府障害のある人もない人も共に安心していきいきと暮らしやすい社会づくり条例)が施行されましたが、この条例に当事者の意見を反映させるため精力的に活動したのが「障害者権利条約の批准と完全実施をめざす京都実行委員会」の面々です。同実行委では、このたびの差別解消法施行へ向けても、学習会やイベントなどを通じて、「合理的配慮」の考え方の普及などに努めてきました。

そうして迎えた施行当日。

あいにくの雨模様の一日となりましたが、実行委の面々は、京都市内の主要各所で街頭行動を実施、啓発用のパンフレットやポケットティッシュを道行く人たちに配りながら、新しい法律のスタートとその意義をアピールしました。

私も午後4時から阪急西院駅前で行われた街頭行動に、四肢障害のある知人らとともに参加し、「本日、障害者差別解消法が施行されました。ご理解いただくためにパンフレットをお配りしていま~す」などと大声で訴えました。差し出すパンフは、なかなか受け取ってもらえません。でも、たまには受け取って、その場で熱心に読んでくれる方もおられます。こうした地道な啓発活動に、今後もたまには参加しようと思っています。

 

 

2016.2.5.  『土蜘』劇評もどき

京都部落問題研究資料センターの『通信』第42号(2016.1.25.発行)に「『土蜘』劇評もどき」を寄稿しました。

土蜘蛛(=土蜘)は神代古代の日本史の随所随所に、妖怪あるいは化物の姿で登場しますが、おそらくは土着の少数先住民であり、大和朝廷以降の権力者たちからすると目障りな「まつろはぬ民」だったのでしょう。

平安期に源頼光四天王の手で退治された土蜘蛛の遺跡と伝えられる京都・北野の「土蜘蛛灯籠」や、神武天皇に討伐された土蜘蛛が地中に封じ込められた場所と伝えられる大和・葛城の「土蜘蛛塚」に触発され、昨年末に京都・南座の顔見世興行で上演された黙阿弥作『土蜘』の劇評の体裁を借りながら、往古日本の各地で国家権力による殲滅の憂き目を見た少数先住民に思いをはせる一篇です。

 

 

2015.5.15.  屈嘉のこと

   近日中に新たな人権&観光フィールドワークのコース「壬生コース」を策定するつもりの私は、先日その下見がてら、京都市中京区六角通大宮から西へ進んだところにある「山脇東洋観臓之地」の碑を見てきました。この碑はかつて六角獄舎があった場所に建てられており、すぐ隣りには、六角獄舎に囚われ、蛤御門の変のどさくさの中で斬殺された幕末の尊攘志士、平野国臣らの終焉地であることを示す碑も建っています。

   さて「山脇東洋観臓之地」の碑には「日本近代医学のあけぼの」の文字も刻まれています。1754年(宝暦4)閏2月7日、医師・山脇東洋と同輩数人は、京都所司代の許可を得て、刑死人の遺体解剖に立ち会います。これは杉田玄白、前野良沢らが江戸小塚原刑場で遺体解剖に立ち会う明和8年(1771)より17年も前のこと。東洋はその際の所見に基づき、1758年暮れに『蔵志』という本邦初の人体解剖図録を刊行します。

   それまで我が国の医学者は、おそらくは死穢への忌避観念などもあって人体解剖に臨むことなく、人の体のしくみを知るのに、構造が似ていると言い伝えられてきたカワウソを腑分けして観察していたといいます。その意味で東洋らによる人体を対象とした観臓は画期的で、「近代医学のあけぼの」に相応しい出来事だったとはいえますが、腑分けに直接当たったのは東洋らではなく、屠者、すなわち斃牛馬の解体に日常的に携わり、六角獄舎の下吏をも務めていた、いわゆる穢多身分の者たちでした。東洋らは、科学的探究心を抱きながら、なお一方で死穢への忌避観念にも囚われていたのでしょう。穢多身分の者に腑分けをさせ、それをやや遠巻きに覗き込みながら写生の絵筆を走らせる東洋らの姿が目に泛びます。

   こうして東洋は『蔵志』を著すのですが、今これを見ると、腰の引けた観察姿勢を反映してか、解剖図は大雑把で精密さに欠けるものといわざるを得ません。しかも、首がない・・・・。でも、首がないのは東洋らが手抜きして描かなかったわけではなく、解剖に付された遺体にそもそも首がなかったのです。それは、屈嘉(くつか)と呼ばれた罪人の遺体でした。六角獄舎から市中引き廻しの上、西土手刑場(今の西大路太子道あたり)で斬刑に処せられ、首はさらし首となり、体だけが解剖のため六角獄舎へ戻されたのでした。

   いずれにせよ、屈嘉が、本人の意思はさておき首から下を「献体」してくれたおかげで、東洋は人の臓腑を実見できたわけで、彼は屈嘉に「利剣夢覚信士」の戒名を授けてねんごろに供養し、『蔵志』にも屈嘉への謝辞を記しました。「我が党をして千歳の大疑を徴せしむるは豈に非ずや。其の我が道に於けるや大勲ありと謂ふべし」。

   それにしても気になるのは「屈嘉」という呼び名。彼には嘉右衛門というれっきとした名があったのですが。いったい「屈」とは、罪人をおとしめるためのものなのか、身体や気質の特徴を示すのか、それとも何か別の意味を表すのか・・・・。しばらくはこの「屈」の一字が気になって頭を離れそうにありません。

 

 

2015.1.9.  共に創り、共に楽しみ、共に生きる~「外国人の人権」を語る

  京都府の府民生活部の職員研修で「外国人の人権~多文化共生社会の成熟へ向けて」と題し、講演させていただきました。

  私が長年関わってきた「東九条マダン」は、民族性や国籍(籍)、性別、年齢、障害の有無などの「違い」を超え、さまざまな人たちが、対等な立場で「共に創り、共に楽しむ」ことを通じて、「共に生きる」ことの豊かさを実感できる、そんなまつりです。講演では、昨年11月で第22回を数えたこのまつりについて紹介した上で、最近の日本社会の「外国人の人権」に関し、思うところを述べさせていただきました。昨今の日本社会に蔓延しつつあるかに見える排外的・排他的傾向には、怒りもさることながら、それ以上に悲しさややりきれなさを覚えています。「ああ、この国の私たちは、こんなにも心貧しかったのか」と。コリアンや中国人をおとしめ、蔑んで得られる日本人の「誇り」などあろうはずがありません。これは何についても云えることで、他者をおとしめて得られる「誇り」などは誇るに値しないと思います。ところが、こんな当たり前のことが分からなくなりつつある時代なのです。だからこそ私は、私自身が東九条マダンに参加することで実感してきた「共に創り、共に楽しみ、共に生きる」豊かさを、地道に広げていきたいと思っています。

  フランスから、新聞社がイスラム教徒らしき人物によって銃撃され多くの人々が殺害されるという極めて重大な事件の報が届きました。日本にも多くのイスラム教徒が暮らしています。彼らのほとんどは、イスラム教を信仰していない私たちと、宗旨こそ違うが互いを尊重し合いながら、この社会を「共に創り、共に楽しみ、共に生き」ているのです。今回のような事件を契機に、イスラム教徒全般に対する差別やバッシングが強化されないことを願っています。


 

人権フィールドワーク「京都駅北コース」を新設

 この秋、滋賀県人権センターで昨年に続き「ファシリテーター養成講座」の講師を務めましたが、連続講座のうち1回をフィールドワークにあて、午前中に京都駅南側の東九条エリアを案内、午後は京都駅北側を案内しました。このさい、「観光も楽しめる」人権フィールドワークの新たなコース「京都駅北コース」が誕生しました。希望によっては京都市内最大規模の被差別部落・崇仁地区内にある柳原銀行記念資料館にまず立ち寄り、そこから北へ向かいます。高瀬川に沿って、かつて遊郭街だった「五条楽園」あたりを歩き、今や世界の大企業になった任天堂の旧社屋前も通ります。京都市内の市民活動の拠点になっている「ひと・まち交流館」、女性参拝者が絶えない市比賣(いちひめ)神社、北野天満宮の前身ともいえる文子(あやこ)天満宮、東本願寺の所有する庭園で、江戸期初頭までその場所に「かわた村」があったという枳穀邸(渉成園)などに立ち寄り、最後は東本願寺へ、という所要約2時間のコースです。なかなか楽しいお勧めコースです!

ゲートボールのこと

 5月9日、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長の神美知宏(こう・みちひろ)さんが急逝されました。ハンセン病市民学会の開催を翌日に控え、滞在中だった群馬県草津町内のホテルで倒れられたとのことです。ハンセン病問題解決のため先頭に立って運動を牽引してこられた神さんの突然の訃報に、私も大きな衝撃を受けています。

 神さんとは数度お会いしましたが、初めてお会いしたさいに聴かせて下さったお話が、今も印象に残っています。それは神さんが長い年月を過ごされた大島青松園(香川県)でのゲートボールにまつわるお話。青松園ではかつて入所者の間でゲートボールが盛んに行われ、かなりの腕前の人が揃っていたのですが、当初は対外試合をしたくても相手がいませんでした。香川県本土のチームの人たちは、ハンセン病への偏見ゆえに、療養所のチームと試合をしたがらなかったのです。けれどもやがて、何かのきっかけで青松園に練習試合に来ることがあって、本土チームの人たちは、療養所チームの強さに目をみはります。(そのときの神さんの口ぶりでは、療養所チームは無敵。今にして思えば、神さんもいくらか誇張しておっしゃっていた気もしますが。)さあ、相手が強豪だと思い知らされた以上、本土チームの人たちも、もう「あの人たちはハンセン病だから近寄るな」なんてことは云ってられません。船で島へ渡ればそこに自分たちより強い人たちがいると分かっていながら、その人たちを仲間はずれにして覇を競うことに何の意味があろう。と、そんなわけで、それからは本土チームが頻繁に大島へ渡ってくるようになり、一方療養所チームも本土で催される大会に参加するようになり、優勝の栄冠を勝ち取ることも一度や二度ではなかった‣‣‣。そういうお話を、神さんは、初めてお会いしたとき、私にじつに楽しげに語り聴かせて下さったのでした。私はこのお話をうかがってから、にわかにゲートボールというものへの関心に目覚め、本屋で解説書を買ってきてルールを覚えたりしたものです。

 あのお話の中には、人権について、ハンセン病問題解決について、深く考えるためのヒントがたくさん詰まっていた、と改めて思っています。神さん、ありがとうございました。人生を賭した長年にわたる神さんのたたかいに、敬意を表します。

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起震車と車いす

 大地震の揺れを疑似体験できる「起震車」が、消防署などから各所へ派遣されています。私が関わっている或るイベントでも昨年この起震車を呼びましたが、そのさい起震車がバリアフリー化なされていないことが問題となりました。そこでイベント主催者サイドでスロープを用意し、脳性マヒなどの障害をもつ人たちも車いすやストレッチャーに乗ったまま起震車に上がり、地震の揺れを体験することができたのでした。
 イベントは毎春開催されていて、先日の会合で、今年もまた起震車を呼ぶことになったのですが、そのとき、会合に出席していた消防署の担当者が次のようなことを述べたのです。じつは…日常的に車いすを利用している障害者の起震車体験は禁止されているのだ、と。前年は私たち(起震車を派遣した消防署サイド)もマニュアルを熟知しておらず、車いすの方々にも体験していただいたが、あれはじつはよくなかった。マニュアルというのは行政サイドのではなく車輌メーカーの出しているマニュアルで、そこには起震車体験が禁止されている人として、脳性マヒだとか脊損だとか、要するに車いすの障害者のほとんどが列挙されていた。だのに私たち(消防署)は前年の時点ではそれを知らなかった。たいへん申し訳ない、云々。
 つまり、今後は車いすの障害者には起震車での体験をご遠慮いただくほかない、と消防署の担当者は述べたわけです。会合には車いすの障害者が数人出席していました。彼らは腑に落ちない表情を浮かべていました。消防署の担当者が大まじめに「申し訳ない」と謝っているのは、皮肉な見方をするなら「本来はあなた方(車いすの障害者)を起震車から締め出さなければいけなかったのに、昨年は締め出しそこなってしまいました。ごめんなさい」と言っているのと同じだったからです。
 なぜ車いすの障害者は、起震車から締め出されなければならないのか。要するに「危険だから」。車いすの障害者が起震車体験で転倒して怪我するとか障害の悪化を招くとかいったことが危惧されているらしい。しかし考えてみれば、起震車とはもともと「危険」を疑似体験するものです。私たちが大地震の危険を体感し、防災意識を高める。それが起震車の存在理由のはずです。ところが車いすの障害者には、この疑似体験をする資格が与えられていない。防災意識を高めるべき「私たち」から、少なくともここでは排除されてしまったのです。当事者たちが腑に落ちないのも当然です。
 そうは言っても、たかが疑似体験で怪我をしたり障害を悪化させたりしたら元も子もない…。なるほどその通り。でもそれは健常者も同じです。健常者だって、本当の大地震が来れば身の危険にさらされる。でも起震車では、危険を疑似体験できる一方で、安全も保障されているのです。でなければ、誰も起震車体験なんかしやしない。
 同じ論理が車いすの障害者に対しても適用されるべきなのです。健常者が「危険」を「安全」に体感できるのと同じように、車いすの障害者も大地震の危険を疑似体験でき、同時に安全が保障されている、そういう起震車をこそ実用に供さなければならない。求められるべきは、危険だからと障害者を締め出すことではなく、障害者と健常者が「危険」の疑似体験を「安全」に共有できる環境を整えることではないでしょうか。

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梁民基先生を偲ぶ

 去る7月29日、梁民基(ヤン・ミンギ)先生が亡くなられました。78歳。  今日の私の人生は、21歳のときの梁先生との出会いによって定まったと云っても過言ではなく、人のことを易々とは「先生」と呼ばない私が、ほとんど唯一、心底から「先生」と呼ぶ存在、それが梁民基先生でした。 先日、私が事務局長を務めている「東九条マダン」の広報紙「東九条マダンニュース」(2013年第1号、8月31日発行)に、梁先生を追悼する文章を書きましたので、ここに転載します。

 (前略)1980年代、韓国国内の民主化運動と連帯し、アフリカやラテンアメリカの民主化運動にも共感を寄せる中で、梁先生は文化のもつ意義について考えぬきました。そして、権力者が民衆に押しつける文化ではなく、民衆が自らの知恵と情熱によって創りだす文化こそが真の文化であり、こうした民衆文化を創造するエネルギーが社会をあり得べき姿に変えていくと確信し、「民衆文化運動」を提唱、これをさまざまなかたちで実践していきます。特筆すべきは、朝鮮半島伝統の表現様式であるマダン劇を、民衆の希望と反骨精神をうたいあげるものとして、日本でまっ先に紹介したことです。梁先生が大阪で始めたマダン劇の上演運動は「生野民族文化祭」へと受け継がれました。一方で梁先生の実践する民衆文化運動は、在日朝鮮人だけでなくすべての民衆が文化創造の担い手となり得るもの。多くの日本人もそこに魅きつけられました。私もその一人です。

 90年代に入ると京都で、梁先生の教えを受けた民衆文化運動の担い手、ハンマダンのメンバーらが中心となり、東九条マダン開催へと動き始めます。梁先生も、これからは東九条を民衆文化運動の実践の舞台にしたいと強く思ったにちがいありません。マダンの開催が決まると拠点を大阪から東九条へ移し、以降体調を崩すまで、東九条マダンで、マダン劇づくりや美術班のものづくりに関わり、あとを受け継ぐ私たちに、自らの文化を創りだす精神の気高さを伝えました。

 昨年、私たち有志は『みずからの文化を創りだす 梁民基記録集』を刊行しました。先生の業績を後世に伝えていくことは、教えを受けた私たちの責務だとの思いがあり、また、闘病中だった先生にとって、記録集の刊行が少しでも励みになれば、とも思ったのでしたが…。  記録集は、遺稿集になってしまいました。

 今年の東九条マダンでは梁先生を追悼するプログラムを実施したいと考えています。ご冥福をお祈りします。

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吉祥院六斎念仏

 去る4月25日の夜、京都市南区の吉祥院天満宮を訪ねました。その日は天満宮の春季例大祭に当たり、たいそうな人出で賑わっていました。8時過ぎから舞台で「吉祥院六斎念仏」の奉納演奏が始まりました。

 六斎念仏は、平安時代に空也上人が始めた「踊躍念仏」が起源といわれています。その後、六斎念仏は干菜寺系(念仏六斎)と空也堂系(芸能六斎)という二つの流れに分かれ、空也堂系は民衆が親しむ芸能として京都各所で行われました。現在も吉祥院の他、壬生、中堂寺、嵯峨、千本、小山郷などの各所で保存会が伝統を受け継いでおり、京都の六斎念仏は一括して国の重要無形文化財にも指定されています。

 私は数年前から、吉祥院六斎念仏の取り組みに若干の関わりをもち、2010年春には「六斎のあるまちシンポジウム」でコーディネーターを務めさせていただいたこともあります。六斎念仏は、いわゆる“被差別芸能”ではありませんが、吉祥院六斎念仏に限っては、被差別部落の人々が、現在その伝統を受け継いでいます。

 桂川に近い農村であった吉祥院地域には、かつていくつもの六斎組があり、互いに妍を競っていました。被差別部落の人たちは長らく六斎に関わることを許されていませんでしたが、明治初年ごろ、ようやく菅原組という六斎組を結成します。とはいえ、天満宮の舞台に立つことを拒絶されるなど、菅原組は、厳しい差別の中で六斎と取り組まなければなりませんでした。ところが…戦後、吉祥院地域の開発が進み、かつての農村型地縁社会が変容を余儀なくされる中で、菅原組以外の六斎組は衰微し、後継者難などから次々と活動停止に追いやられます。そして、結果的に菅原組だけが残ったのです。現状では菅原組だけが唯一、吉祥院六斎念仏の伝統を守り、伝えているのです。…こうした歴史に関心を抱き、私は吉祥院六斎念仏について少しでも多くの人に知っていただくため、いろんな場所で言及するなどしてきました。次世代に六斎の伝統を伝えるために設立された「吉祥院子ども六斎会」は、子どもたちに、単に芸能を継承するだけでなく、差別に屈せず六斎に取り組んできた先人たちの尊い精神をも継承していくことを重要な柱にしています。「子ども六斎会」の仕掛け人である石田さんらは、『獅子のごとく』というニュースペーパーを発行するなどして、六斎念仏という地域文化を核に据え、なおかつ人権をもキーワードに、まちづくり活動を展開しています。

 舞台では、笛、太鼓、鉦を奏でる大人たちに見守られながら、「子ども六斎会」の子どもたちが、四つの太鼓を組み合わせた「四ッ太鼓」を順々に打ち鳴らしていました。今では“大人”の側で演奏している青年も、そういえば数年前には“子ども”の一員として四ッ太鼓を叩いていたなぁ、なんて思いながら、暖かい春の宵、奉納演奏に耳を傾けたことでした。

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笠置町で「“人権”を歩く」と題して講演

 3月19日(火)、京都府笠置町の笠置会館で催された「笠置町同和・人権学習公開講座」で「“人権”を歩く~京都・西陣コースを例に」と題して講演しました。昨年9月、笠置町の皆さんが京都市内に人権フィールドワークにお越しになったさい、「東山コース」をナビゲートさせていただきましたが、それがご好評をいただいたようで、今回は私が笠置町に赴き、ご要望にお応えして、私が常々心がけている、観光の愉しさも兼ね備えた人権フィールドワークの醍醐味について、講演という形で皆さんにお伝えしました。

 よく知られている“人権ゆかりの地”を、点を結ぶようにして移動しながら見て回るのではなく、街をそぞろ歩きながら、人々の暮らしを感じ、街の歴史を感じ、もちろん、ときには名所旧蹟にも立ち寄り、人間の生活の営みが営々と繰り返されてきた場には必ず“人権”を考えるモチーフが潜んでいる、という気構えで、いろんな発見をしていただく…というのが、私の実施している観光&人権フィールドワークです。お集まりの皆さんの中には「東山コース」に参加された方も多かったので、講演では、「西陣コース」を例に採って話を進めました。ちょうど3月14日に大阪府泉南市の皆さんを「西陣コース」にご案内したばかりでしたから、そのときの写真をスライド上映しながら、皆さんに「西陣もぜひ歩いてみたい」と思っていただけるようにお話ししたつもりです。

 笠置町は京都府の最南東、三重県・奈良県との府県境の近くに位置しています。京都と奈良の間、あるいは伊勢へ到る往還の途上にあるわけですから、当然、豊かな歴史を秘めた町でもあります。笠置山寺などの史跡は言うに及ばず、いろんな歴史上の人物にまつわる伝説等も多く語り継がれているといいます。

現在は人口1600人ほどで、京都府内最小規模の自治体であり、それだけに町政はさまざまな課題に直面しているようですが、であればこそ、笠置町でもぜひ観光&人権フィールドワークのコースを策定し、町歩きする人々をどんどん呼び込み、町の活性化の一助としていただきたいと思います。

 講演を主催した笠置町同和教育推進協議会の山本会長からは、地元の同和地区(会場の笠置会館もその中にありました)の歴史についてお話を聴かせていただきました。小さな川を挟んで「一般地区」と向き合う同和地区の歴史には、一般地区との関わりのあり方をめぐるさまざまなエピソードが秘められています。 町歩きの途中で同和地区にも立ち寄り、こうしたエピソードを聴きながら部落の人々の来し方に思いをはせるのもとてもいいことではないでしょうか。

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人権&観光の東山区フィールドワークが好評

 東山区の観光エリアを、観光しながら歩く「人権」フィールドワークを提案しています。今秋は、この東山コースを案内してほしいというご要望を複数お受けしました。なかなか好評のようで、うれしい限りです。

 東山の五条あたりの山腹には、中世以前の京都の代表的な葬送地「鳥辺野」がありました。鳥辺野の入口は“六道之辻”と呼ばれ、生死の世界の境界と見なされていました。この六道之辻の中心に位置するのが六道珍皇寺。生死の両界を自在に往還したとされる小野篁にまつわる故事を伝える寺です。フィールドワークはこの六道珍皇寺を起点または終点にしたコースを歩きます。鳥辺野での葬送の仕事に従事した非人たちは、六道之辻の近くに暮らし、「坂者」と呼ばれました。彼らは祇園社(八坂神社)にも仕え、清目や警護の役割を担いましたが、そのさいは「犬神人」「弦召」などと呼ばれました。…というような話を聞いていただきながら、八坂の塔、八坂庚申堂、八坂神社などを巡り、観光気分も味わっていただきます。時間にゆとりがあれば、祇園東部・祇園甲部といった花街エリアも散策していただけます。花街は女子労働の現場であり、さりげなく“人権”にも思いをはせながらそぞろ歩き、かつ京情緒を堪能する、というのもなかなか良いのではないでしょうか。

 これまでにもいくつかのグループをご案内しましたが、来週も兵庫県伊丹市から来られる皆さんを案内させていただくことになっています。人権フィールドワークというと、被差別マイノリティに関わる場所をチョイスして、点から点へ渡り歩く、というようなものになりがちですが、考えてみれば、どのような場所にも歴史が刻まれていて、歴史が刻まれた場所には必ずや人々の暮らしがあったのであり、人々の暮らしは、それが如何様なものであれ、“人権”の視点から見つめ直すことが可能である以上、この東山コースにおいては、点と点を結ぶ線上をぶらぶら歩き、観光気分に浸っていただきながら、歴史を感じ、人々の暮らしを感じ、人権を感じていただきたい、と思っています。

 東山コースの他、西陣コースというのも用意していますので、ぜひまたお声をおかけ下さい。

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ボッチャを体験

 去る9月1日、京都市障害者スポーツセンターで催された「ボッチャ審判講習会」に、妻と共に参加しました。ボッチャは、脳性マヒ者のために開発された、いわゆる“障害者スポーツ”で、現在行われているロンドンパラリンピックでも正式競技として実施されています。

 おおよそのルール説明を受けたあと、インストラクターの指導のもと、実際に試合形式の競技に参加しながら、ボッチャを体験しました。

 ルールは、説明し始めると長くなるので、ごく簡単に言いますと、

 ①まずAチームの第1投者が「ジャックボール」という白い球をコートに投げ入れる。

 ②続けてAチーム第1投者が赤球を投げ入れ、次いでBチーム第1投者が青球を投げ入れる。

 ③ジャックボールからの距離が遠いほうの球のチームの第2投者が、2つめの球を投げ入れる。以降もジ   ャックボールからの距離が遠いほうの球のチームがコートに球を投げ入れていく(つまり、必ずしも両チームが交互に投げ入れるとは限らない。どちらかのチームが先に全球を投げ終えてしまった場合、その後にもう一方のチームが残りの球を投げ入れていく)。

 ④最終的に、両チームが6つずつ球を投げ入れ、ジャックボールに最も近い位置に球があるほうのチームがゲームの勝者となる。負けチームの側の球のうち、ジャックボールに最も近い位置にある球よりも内側にある球の数が、勝ちチームの得点となる(この得点のカウントの仕方は、カーリングと同じ)。

 ⑤ペア戦の場合、4ゲーム行い、合計得点を競う。

その他細かいルールもいろいろありますが、省きます。球は投げ込んでもよし、転がしてもよし。ただしコートから出てしまったら無効球になります。重度障害者の場合、ランプスという滑り台状の補助具を用いることもあります。カーリングに似ていますが、カーリングとの最大の違いは、カーリングの場合は中心位置が固定されているけれども、ボッチャの場合は中心位置(ジャックボール)そのものを、球を当てて動かすことができるという点です。そのことが、試合をよりスリリングにするし、作戦上の多様性を生み出します。

 “障害者スポーツ”というよりも、障害者と健常者が全く互角に、一緒に戦い、一緒に楽しむことのできるスポーツです。私たちは、その魅力にすっかりはまってしまいました。

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「和い輪い人権ワークショップ」で“スポーツと人権”

 京都市が市民向けに開催している「和い輪い人権ワークショップ」は、2003年度から始まり(当初は「和い輪い人権学習会」という名称でした)、今年度で10年目を迎えます。私は「穀雨企画室」を設立する以前のNPO法人職員時代に、その初年度から関わり、企画および進行を担当してきました。今年も京都市の委託を受けて、計3回の人権ワークショップづくりに臨むこととなりました。

 これまでとはまた違った新たな切り口で、しかも市民の皆さんが興味をもって参加していただけそうなテーマを、と考え、京都市サイドに提案した3つのテーマが採用されました。

 「スポーツと人権」「裁判と人権」「クルマ社会と人権」です。

 「スポーツと人権」は、今夏オリンピックとパラリンピックが開催されることをふまえ、ぜひ採り上げてみたいと思いました。このテーマのワークショップが実施されるのは9月後半なので、参加者の皆さんも、きっとスポーツの感動をたっぷりと味わった後だろうと思います。だからこそまた、スポーツという切り口で人権を考えるのには、ちょうど良い時期ではないかとも思います。スポーツは素晴らしい!私自身もスポーツを観戦するのは好きです。札付きの大相撲マニアであることは以前のブログでカミングアウトしましたが、プロ野球も高校野球も、サッカーもバレーもテニスも、何でも好きです。(ちなみにプロ野球では、千葉ロッテマリーンズの大ファンです。今年は今のところパリーグ首位なので気分がいいです。それから他に、最近わりとよくテレビ観戦するスポーツといえば、ボウリングPリーグ、でしょうか。)と同時に、スポーツを通して人権について考えることも、なかなか興味深いものです。障害者スポーツのあり方、スポーツにおける人種や国籍にまつわる事柄、セクハラ・パワハラ・体罰などの問題…。皆さんも、このワークショップに参加して、一緒にスポーツを切り口に、人権についてあれこれ考えてみませんか?

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名張毒ぶどう酒事件「再審請求棄却」

 先週の金曜日(2012年5月25日)、名古屋高裁は「名張毒ぶどう酒事件」について、「再審を認めない」との決定を下しました。1961年に三重県名張市の山間の集落で起こった「名張毒ぶどう酒事件」では、ぶどう酒を飲んだ5名の女性が亡くなり、殺人罪に問われた奥西勝さんに対し、津地裁が64年に無罪判決を出したものの、69年に名古屋高裁が逆転死刑判決を出し、72年に最高裁が上告を棄却したことで死刑が確定しました。以降、度重なる再審請求を裁判所は棄却し続けましたが、第7次の再審請求に対し、2005年に名古屋高裁が再審開始を決定。ところが同じ名古屋高裁が翌06年に再審決定開始を取り消したのです。その後の特別抗告に対する最高裁の高裁への審理差し戻しを受けて、今回、名古屋高裁は改めて第7次再審請求を棄却した、というわけです。

 私は今回の高裁の再審請求棄却の報に接し、この事件および裁判経過について詳しく記した江川紹子さんの著書『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』を通読し、奥西さんを犯人と決めつけるにはあまりに不自然な要素が多すぎる事件であることを改めて感じました。奥西さんは事件直後に犯行を“自白”しましたが、自白がいかに信用するに値しないものであるかは、他のさまざまな事件を通しても明らかです。しかも弁護団は、長年の地道な努力の積み重ねの中で、自白を裏付ける“証拠”が孕む矛盾・不合理・曖昧さを丹念に立証してきました。けれども裁判所は、そうしたものにほとんど目もくれません。

 今回の再審請求の中で弁護側は、犯行に用いられたとされる毒物は、奥西さんの“自白”した農薬「ニッカリンT」ではなかった、と主張しました。簡単にいうと、「ニッカリンT」は水に溶かした状態で不純物が出るのに、当時の分析では不純物が検出されていないことを指摘したのです。これに対する検察側の「当時の手法では不純物は検出できないから用いられた農薬はニッカリンTである」という異議を、高裁はそのまま認めて、弁護側の主張を却下したのです。要するに、不純物が検出されなかったのは農薬が「ニッカリンT」とは別の農薬だったからではなく、単に当時の分析技術が未熟だったから、ということで片付けてしまったわけです。不純物が検出されなかったからには、少なくとも「ニッカリンTではない」可能性は否定できないはずですが、「ニッカリンTでなかったとまではいえない」というような調子で、裁判所はあくまで証拠の“揺らぎ”を認めようとしないのです。どうやら、何が何でも確定判決を維持したいものとみえます。確定判決を覆すことは、司法秩序に違背するという妄念にとりつかれているのでしょうか。私が目を通した新聞には、元最高検検事だとかいう人が、「『確定判決は真理なり』といわれるが、まさに真理が確認されたといえる」などというコメントを寄せていました。例えば足利事件の菅谷さんを前にしても、この人は「確定判決は真理」などとうそぶくのでしょうか。「真理」である確定判決もあれば、「真理」ではない確定判決もある、ということを、裁判所も検察も私たち市民も、ちゃんと認識しておかなければなりません。

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旭天鵬関の優勝に思う

 大相撲五月場所は前頭7枚目・旭天鵬(友綱部屋)の初優勝で幕を閉じました。長年の地道な精進が、37歳の古参力士に最 高の栄誉をもたらしました。すばらしい優勝だったと思います。旭天鵬関、おめでとうございます!  

 それにしても、NHKの相撲中継を聴いていると、「日本人力士の」云々というコメントが相変わらず多いのが、ちょっと耳につきます。大関稀勢の里関に対してはとりわけ「日本人力士として」という表現での期待のかけ方が、やや度が過ぎるように思える気もします。私としては、優れた力士に対しては、日本人だろうと外国人だろうと関係なく敬意を抱きます。横綱白鵬関がその一人であることは言うまでもありません。もちろん、稀勢の里関、琴奨菊関など“日本人”力士にも、日本人であるからというよりも力士としての資質の素晴らしさから、大いに期待をかけてはいますが。

 

 それはともかく、NHKの中継の「日本人力士」云々を聴くたびいつも思うのは、もし今後、在日朝鮮人力士が優勝に近づいた場合、いったいどういう言い方をするつもりなのだろう、ということです。現に力士たちの中には在日朝鮮人がいるのですから、その可能性は大いにあります。だいたい、「本名」欄に記載されているのがじつは通名であるとか、日本籍を取得して「本名」自体が日本名に変更されているとかで、在日朝鮮人であることが第三者的には判別できず、勝手に日本人力士だと思い込まれている力士だっているかもしれません。そういう力士が幕内最高優勝を果たして「栃東以来○○場所ぶりの日本人の優勝!」と謳われることはあり得ます。まあしかし、それは報道する側も力士の民族性を把握する手立てがなく、日本人と思い込まされていたのだから「仕方ない」としましょう。では、在日朝鮮人であることが第三者的にも明らかな力士についてはどうか。現に幕内には、今場所こそ怪我のため不振を極めていたものの、栃乃若関(春日野部屋)という有望力士がいて、彼は本名を李大源というれっきとした在日朝鮮人力士なのです。栃乃若関が優勝するか、少なくとも優勝争いにからむ可能性は、今後少なからずあります。そのとき、まさかNHKは栃乃若関を「日本人力士」とは呼ばないでしょうが、さりとて「外国人力士」扱いするとも思えません。NHKがイメージしている外国人力士とは、外国生まれの外国人、ということでしょうから。

 

 千秋楽の中継では、旭天鵬関が帰化して日本籍を得ている事実が頭をかすめたらしいアナウンサーが、「その意味では日本人力士同士の決定戦」などと混乱したことを口走っていました。かつて曙関や武蔵丸関の帰化後、あなたは彼らのことを「日本人」と呼んだのか、と思わず問い質したくなりました。相撲報道は、力士を「日本人」と「外国人」の二分法で論じるのを当面やめたほうがいいのではないか、と思います。どうしても「外国人力士」だ「日本人力士」だと言いたいなら、その定義を、栃乃若関のような存在もしっかり視野に入れた上で整理すべきでしょう。

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相撲の歴史を人権の視点で…

 私は筋金入りの大相撲マニアです。他のことはともかく、大相撲に関してだけは「博識」といえるのではないかな、と自負しています。現在、縁あって、東関親方(元幕内・潮丸)率いる東関部屋を応援する、京都の後援会の役員をしています。広報担当なので、今、五月場所へ向けた「後援会通信」の作成にとりかかろうとしているところです。空きスペースがあれば、地元・京都にちなんで、明治期の京都相撲の横綱・大碇紋太郎のことを、コラム風に紹介してみたい…などと考えています。

 さて先日、近世部落史などを研究しておられる元・京都文化短期大学教授の辻ミチ子さんとお話ししているとき、話題が相撲のことに及び、辻さんから、「相撲の歴史を、“人権”の視点でまとめてみてはどう?」とご提案いただきました。なかなか面白いかもしれません。江戸勧進相撲から現在の大相撲に至る東京相撲の歴史を“人権”の視点をふまえつつ辿り直してみるのも興味深いですが、京都あたりの地方相撲・草相撲に焦点を当てながら、“人権”の視点をふまえてその歴史を辿ってみるのもいいかもしれません。まあ、いつになるか分かりませんが、できれば早いうちに、こうした作業にも着手してみたいと思います。

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