梁民基先生を偲ぶ

 去る7月29日、梁民基(ヤン・ミンギ)先生が亡くなられました。78歳。  今日の私の人生は、21歳のときの梁先生との出会いによって定まったと云っても過言ではなく、人のことを易々とは「先生」と呼ばない私が、ほとんど唯一、心底から「先生」と呼ぶ存在、それが梁民基先生でした。 先日、私が事務局長を務めている「東九条マダン」の広報紙「東九条マダンニュース」(2013年第1号、8月31日発行)に、梁先生を追悼する文章を書きましたので、ここに転載します。

 (前略)1980年代、韓国国内の民主化運動と連帯し、アフリカやラテンアメリカの民主化運動にも共感を寄せる中で、梁先生は文化のもつ意義について考えぬきました。そして、権力者が民衆に押しつける文化ではなく、民衆が自らの知恵と情熱によって創りだす文化こそが真の文化であり、こうした民衆文化を創造するエネルギーが社会をあり得べき姿に変えていくと確信し、「民衆文化運動」を提唱、これをさまざまなかたちで実践していきます。特筆すべきは、朝鮮半島伝統の表現様式であるマダン劇を、民衆の希望と反骨精神をうたいあげるものとして、日本でまっ先に紹介したことです。梁先生が大阪で始めたマダン劇の上演運動は「生野民族文化祭」へと受け継がれました。一方で梁先生の実践する民衆文化運動は、在日朝鮮人だけでなくすべての民衆が文化創造の担い手となり得るもの。多くの日本人もそこに魅きつけられました。私もその一人です。

 90年代に入ると京都で、梁先生の教えを受けた民衆文化運動の担い手、ハンマダンのメンバーらが中心となり、東九条マダン開催へと動き始めます。梁先生も、これからは東九条を民衆文化運動の実践の舞台にしたいと強く思ったにちがいありません。マダンの開催が決まると拠点を大阪から東九条へ移し、以降体調を崩すまで、東九条マダンで、マダン劇づくりや美術班のものづくりに関わり、あとを受け継ぐ私たちに、自らの文化を創りだす精神の気高さを伝えました。

 昨年、私たち有志は『みずからの文化を創りだす 梁民基記録集』を刊行しました。先生の業績を後世に伝えていくことは、教えを受けた私たちの責務だとの思いがあり、また、闘病中だった先生にとって、記録集の刊行が少しでも励みになれば、とも思ったのでしたが…。  記録集は、遺稿集になってしまいました。

 今年の東九条マダンでは梁先生を追悼するプログラムを実施したいと考えています。ご冥福をお祈りします。

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