●自分自身の「いま」を再発見する

 人権ワークショップの場で、自分自身の「いま」を再発見する、とは…。 人権課題に対する、あるいは人権課題の対象とされる人たちに対する、自分自身の今現在の心のありようを、善いとか善くないとか判断する前に、まず見つめ直すことです。

 例えば、通勤・通学途中の電車の中で、ほぼ毎朝見かける障害者がいるとします。電動車いすを利用しているその人は一見したところ重度の障害者。あなたはその人を見るたびに何を感じるでしょうか。そもそも、「障害者」と感じていることが、一つの心のありようだと言えます。健常者に対していちいち(あの人は健常者だな)と思うことはほとんどあり得ないのに、障害者に対しては、見た目でそれと判る場合はたいてい(あの人は障害者だな)と思う…。それは、一つの心のありようです。親しい間柄であれば、その人が重度障害者であっても、(障害者だな)と思うより(○○さんだな)と思うかもしれませんが、ただ毎朝見かけるだけの相手であれば、(障害者だな)と認識するのはむしろ自然だとも言えるでしょう。 さて、その障害者に対し、あんまり毎朝見かけるので、ふと、いつになく思いをはせる、ということがあり得るわけです。 満員電車の中に、自分がいて、電動車いすに乗ったその人がいる…という状況のもと、あなたなら何を思うでしょうか。(満員電車に電動車いすは周りに迷惑がかかるし、できればやめてほしいな…)。あるいは(不自由な体なのに毎朝満員電車に揺られて、頑張ってるなあ…)。これらも、障害者に対する心のありようだと言えます。ワークショップでは、自らのこうした心のありようを、まずは善し悪しは度外視して見つめ直し、再発見してみたいと思います。その上で、その心のありようが、相手にどう受け止められるのかを考えてみるのです。

 満員電車の中で毎朝見かける重度障害者を(頑張ってるな…)と思い、それを何かのきっかけで相手に言葉にして伝えたとき…。「頑張って下さい」。相手はどう受け止めるのでしょうか。励まされたと感じてうれしく思うかもしれません。でも…。脳性マヒの重度障害をもつ私の女友達は、電動車いすで出かけた先で、しばしば「頑張って下さい」と声をかけられるそうです。「頑張って下さい」とは何を頑張れということなのか、障害者を「頑張り屋」にしたがる人が多くて腹が立つ、と言っていました。そういう受け止め方もあるということです。

 「自分は人を差別していない」と多くの人が思っているにもかかわらず、差別がなくならないのは、一部の悪意に満ちた差別者のせい…でしょうか。そうとばかりは言えないかもしれません。じつは、「差別していない」つもりの、相手に善意や敬意さえ抱いているつもりの私たちの心のありようが、相手には、無理解そのものと受け止められている場合があります。また、個々人としては決して「差別していない」けれども、一人一人がごく普通の感覚として心に抱いている常識や良識が束になったとき、誰かを追い詰める…というようなこともあるでしょう。ワークショップでは、そうした個々人に内在する、必ずしも“悪”とは言えない心を見つめ直し、それが人権課題とどうつながるかを考えてみたいと思います。

【過去の例から】

 「刑を終えて出所した人の人権」がテーマのワークショップで、あらかじめ幾重かの同心円を描いた模造紙をグループごとに配り、以下の作業をしてもらいました。同心円の最も内側の領域を“向三軒両隣”、その外側を“同じ町内”、その外を“同じ校区”、いちばん外側を“それより遠く”とします。「男(30歳)・強盗・前科2犯」「女(62歳)・窃盗・前科8犯」「男(40歳)・強姦・前科1犯」「女(33歳)・殺人・前科1犯」「男(70歳)・恐喝・前科3犯」等々と記したカードを各グループに渡し、それぞれの出所者が社会復帰して暮らすとき、自分が許容できるその人たちとの生活上の距離感(隣りに住んでもいい/同じ町内ならいい/校区内にいてほしくない/等)を話し合い、カードを模造紙の同心円上に並べていきます。このアクティビティを通して、自分自身の、出所者という存在に対する心のありようはどのようなものなのかを、まずそれぞれに振り返ってもらいました。と同時に、出所者に対する、犯罪歴に即した共通の“忌避感情”のようなものを確かめてもらいました。その上で、私たちの心のありようが、出所者の心にどう受け止められているのかに思いをはせていったのです。

 

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