●他者を「知ろうとする」

 他者をよく知ろうとせず、自分の思い込みに則って「あの人は××だ」と決めつけている。…よくあることだと思います。何らかのカテゴリーにくくられた人たちを、よく知ろうともせずに「あの人たちは××だ」と多くの人が何となく決めつけてしまい、偏見や誤解が固定化し、それがために差別が蔓延している、ということが人権課題の一つのありようだとも言えるのではないでしょうか。

 だからこそ、他者を「知ろうとする」ことは大切なのです。ただし私は、他者を「知る」とは言わないようにしたいとも思っています。

 「知る」と「知ろうとする」は、同じようですがずいぶん違います。「知る」と言い切ってしまうことの危険は、ちょっと学んだだけで何もかも知った気になってしまうことです。例えば、障害者の心情について、ある当事者から話を聞き、その発言内容が全ての障害者の心情を代弁しているかのように思い込み、(障害者とはこういうことを思う人たちなのだ)と決めつけ、障害者について知った気になってしまうのは危険なことです。障害者にも、さまざまな心情を抱えている人がいるわけですから。ところが相手が被差別当事者である場合はことさら、その人の発言が、被差別当事者を代表する発言と受け止められてしまい、それを聞いて全てを知った気になってしまうのです。ここに生じる決めつけは、場合によっては何も知らなかったときの決めつけ以上に厄介なものです。

 大切なのは、「知ろうとする」という心のベクトルを常に維持し続けることです。常に自分は他者について「知る」途上にあるのだという思いをもち続けることです。「知ろうとする」という、相手に向けられた気持ちが、相手とのコミュニケーションを育んでいきます。

 では何を「知ろうとする」のでしょう。私が意識しているのは、他者の心情に思いをはせるのもさることながら、他者の生活者としてのありようを「知ろうとする」ことです。人権課題の対象とされる人たちを、被差別者として捉える見方をいったん脇にやって、その生活者としてのありように率直に関心をもち、「知ろうとする」ということです。私はワークショップという場を、相手を被差別者として捉えるさいに囚われがちな“上から目線”からできるだけ自らを解き放ち、他者と向き合うことのできる場にしたい、と考えています。

【過去の例から】

 「ホームレスの人権」をテーマに実施したワークショップに、「段ボールハウス作り」を採り入れたことがあります。大量の段ボールや新聞紙、ガムテープ、ひも等をワークショップ会場に持ち込み、参加者たちにグループ単位で段ボールハウス作りにチャレンジしてもらいました。参加者は熱心に“工作”に取り組みました。各グループのハウスが完成した時点で、ひそかに招いてあった路上生活経験者が登場、各グループのハウスを品評してもらいました(当事者をゲストとして招くのは、当事者の発言に対し参加者が受け身になってしまいがちなのであまりお勧めできませんが、ここでは企画内容の必要上、当事者の協力を仰ぎました)。すると路上生活経験者からは、次のようなコメントが発されたのです。防寒のために段ボールハウスの内側に隙間なく新聞紙を裏貼りしたハウスについては、「こんなことすると、インクの臭いでシンナー中毒みたいになってしまいます」。大型かつ堅固な段ボールハウスについては、「移動を求められたときすぐ立ち退けるように、たいていはこんな立派なのは作りません」。参加者からは「なるほど…」の声。“生活者としてのホームレス”に気づくことのできたワークショップではなかったかと思います。

 

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