「ダメ」より「なぜ」を考える

 人権は、「~してはならない」という形で語られることがよくあります。こうした禁止の代表的なものに、差別語の使用ということがあります。被差別部落民や在日朝鮮人、障害者や病者など、いわゆる人権課題の対象とされる人たちについて述べるさいに、「差別語」と認知されている表現を使うべきではない、というものです。性差別の克服などを企図して、職業を表す言葉等においても、使用されなくなり、今や死語と化したものがあります。或る言葉が「差別語」と認知されるに到るには、言うまでもなくそれ相応の理由があるわけです。その言葉が向けられることで、傷つけられ、貶められ、劣等感を押し付けられてきた人たちがいたのです。あるいは言葉が、社会的不平等を追認するものとして存在していたのです。或る言葉のもつ差別性を認識し、その言葉を使わないようにし、あるいは差別性をもたない別の言葉に言い替えるよう努めるということには、確かに、差別を乗り越えていくための一つの道筋があると言えます。

 ただ、私たちは往々にして、禁止の理由や根拠に対し考えをめぐらすことなく、ただ禁止を現代社会のルールとして安易に受け入れるだけになってしまいがちです。つまり、かくかくしかじかの言葉は「差別語」なので使用しない、ということがマニュアル化してしまう弊に陥りがちだということです。あるいは、禁止の理由・根拠をわきまえているにしろ、せいぜい「その言葉を使ったら、言われた人たちが傷つくから」といった程度の場合も少なくありません。なぜ傷つくのか、どのように傷つくのか、傷つくとはいったい如何なる心理状態なのか。そのようなことに想像をめぐらすことなく、ただ「傷つくから」というのは、「使っちゃいけないことになっているから使わない」というのと大して違いませんし、「要らん言葉をわざわざ使って波風立てるのは避けよう」というのとも、ほぼ同じだと言えます。

 私は、波風立てるのがいいとは思いませんが、或る言葉を用いないならば、その「なぜ?」を、各人がもっと踏み込んで考え、しっかりと自分自身の見解として有するようになっておくほうがいいと思っています。「言葉」に関するワークショップの導入で、私は参加者の皆さんに、よく次の質問をします。「しょうがいしゃという言葉の適切な表記は?あるいは、それを表す言葉としてより適切な別の言葉は?」。「障害者」は必ずしも「差別語」と認知されている言葉ではありませんが、近年は「障害者」という表記ではなく「障がい者」という表記をよく見かけるようになりました。このことを受けて、皆さんの見解を質してみるのです。 もちろん正解があるわけではありません。各人が如何なる理由・根拠に基づいて、如何なる表記・表現を用いているか、一人一人に振り返って考えていただくために、これをするのです。例えば「障害者という表記は、障害をもつ当事者がの字に不快感を抱くようなので、せめて障がい者とするのがいいのではないか」と考えるとしたら、それはそれでいいと思います。ただし、この場合の「障害をもつ当事者」とは誰のことなのでしょうか。そこもしっかり考えてみたいところです。少なくとも、それは障害をもつ人すべて、と思い込んでしまう錯誤からは自由でありたいものです。

 ワークショップでは、人権を考えるさいに陥りがちな「ダメ」からできるだけ解き放たれて、「ダメ」があるならその「なぜ」について、自由に考えることのできる場づくりを心がけています。

【過去の例から】

 参加者に無作為に選んでもらった片仮名4字を組み合わせて新造語を作ります。その新造語が例えば「ユスカト」だったとして、2人の男女の肖像画を示し、「この2人が『ユスカト』です」と告げ、グループごとに、「ユスカト」とは何を表す言葉なのか、肖像画を手がかりにして、外見的特徴か、内的なものか、あるいは属性、職業、嗜好、等々なのか、話し合いを通じて、まずは「ユスカト」を定義づけてもらいました。次に、「ユスカト」が仮に差別語化していくとしたら、どのような理由で、どのような経過を辿って差別語化していくかを考えてもらいます。このアクティビティの思考回路を、場合によっては実際にある差別語(身体的特徴に関するもの等)に援用し、その差別語は、果たしてもともと差別語だったのか、仮にもともとは単なる客観的事象を指す言葉に過ぎなかったのだとしたら、どのような経過を辿りながら差別語になっていったのか、を議論してもらいました。

 

                                           前のページに戻る